▼amber
「ずっと追いかけてきてますね」
「しつこい奴らだ」
結局、の予定していた場所で食事をすることは叶わなかった。
それどころか横抱きした彼女を降ろそうとする頃合いを見計らっているかと思ってしまうほどのタイミングで黒服の男達が現れては追いかけてくるといった状態でそれらを撒く為にを腕に抱いたまま人の多い場所を選び走り続けなければならなくなり、しかしそれであってもそこはヴァリアーのボスと言ったところだろうかXANXUSは屋根の上を走り己の姿を誰か他の一般客に見せ混乱させるということはなかった。
ここが日本の温泉街で洋風な建物の建築が一切禁止されており瓦屋根の平屋ばかりであることが彼にとって移動はし易く幸いではあったが、観光地として有名な場所でもあった為に人も多くXANXUSの武器である銃が封じられている。
最悪己の命に関わることならば多少の発砲による混乱も致し方あるまいと思ってはいるが何しろ今は女を、それも一般人を腕に抱いている。事件に巻き込まれているだけとはいえ、これ以上色々と見せるのは何かと不味い。
速度を緩めることなく走りつつ背後の気配を気にかけながらちらりと手元の女を見下ろした。先ほどまで驚きに目を見開きつつ荷物を必死に抱きしめていたは数分も走ればこのとんでもないスピードで駆け抜ける様子を、すぐ後ろへと流れるこの夜景を楽しむ程度まで落ち着きを取り戻していて本当に一般人であるのかと問いかけたくなるのも仕方のないことなのかもしれない。まったく、本当に変わった女だ。
「盗難にしては何だか人数多いですよね。私、そんなにお金持ってきてないんですけど」
人違いですかね、なんていうは聡いと感じさせられた彼女と同一人物であるかどうかも疑わしい。
確かに彼女の推測は若干当たってはいるというのに、どうしてそこから明らかに堅気ではないと分かるこの身体能力をまざまざと見せ付けたXANXUSの所為であるとは思わないのかが不思議なぐらいだ。説明するのも煩わしく口を閉ざし走り続けるとはそれに対して特に何も思わなかったのかまた静かに夜景を見始める。
あまりにも平然とこの事態を受け入れていた事に対して若干呆けたところはあったがギャイギャイと騒がれるよりはマシなのかもしれない、と何とはなしに思った。
アンブラが狙っていたのは確かに最初こそだっただろう。発信機が含ませられている例の化粧品は砕き、歩いている最中に他の場所へ棄てたのだが尾行されていたのであれば意味はない。
ずっと後ろを歩んでいたことに当然ながらXANXUSは気付いていた。が、日中はさすがに手を出してはこないだろうという目論見もあったのでそのまま好きにさせていたがとうとう隙を見せない自分達に痺れを切らしたのだと推測した。
しかし彼ら本来の、根底にある目的は恐らく壊滅されたことによるXANXUSとスクアーロへの復讐、顧客リストの入ったメモリーカードの奪取であるはずだった。そして、ついでとばかりに。顧客リストさえ取り戻せば拉致したのその肉体…臓器を売り捌かれることになるだろう、従来のアンブラの商売方法はまた続けられるに違いない。
宿で待機を命じたスクアーロも今頃はアンブラの残党の場所を割り出そうと躍起になっているだろうが如何せんこの場にいるヴァリアーは自分達だけだ、時間がかかることは覚悟している。
「おい」
「はい?」
「…飯は、なしだ」
それも恐らく言わずとも分かっていただろうが一応念のために告げると「分かりました」と静かに頷いた。最早さきほどの場所からは随分離れ、自分達の宿の方が近い。
XANXUSのスピードについて来れる者はいなかったらしい。いつの間にか奴らの気配は随分と希薄になっていたがまだ用心する必要もあるだろうとを降ろすことはしなかった。
確かに買い物にも付き合った。途中彼女の調べてあった場所で甘味も口にしたし、の思ったことは全て叶えてやったつもりだった。
まさか最後の食事が中止になり温泉街を駆け走ることになるとはな、とXANXUSはこの腕に大人しく抱かれた不運女に同情を、そしてアンブラへの徹底的な排除を静かに決意したのだった。
宿へと戻るとようやくそこでXANXUSはを解放する。
降ろした直後は身体がすっかり固まっていたのか少しだけフラついた様子を見せたが相変わらず握り締めた土産品が無事であったか確認する有様で、真正面から見ても怯えた様子も、青ざめた様子もない。
やけに強い女だ。力も無いただの一般人ではあるのにその気丈さだけは認めてやらない事も、ない。
階段をゆっくりと上がる。
は静かにその後ろを歩み、最後の一段を上ったところでXANXUSは振り向いた。「…あいつらは」突然言葉を発した己の様子にきょとんとする。色々と不思議な点もあっただろうし間違いなく自身被害者であろうと気付いているだろうに何も聞いてこないその聡明さはやはり健在らしい。
「…あれは俺を狙っていた」
「そう、なんですか」
だから気に病む必要はない、と続けたかった訳ではない。
そこまでお人好しになったつもりは毛頭ないが何も知らせずにいた方がこの女は深読みをして更なる不運を呼び寄せてしまいそうな気がしたのだ。もっとも知らせたところで彼女が幸せになるかといえばそうではないのだが。
そのまま会話が続くことはなかった。これ以上話す訳にはいかなかったしそれで良かった。シンと静かな廊下を歩みXANXUSは一番奥へ、そしてはその隣の部屋へと同時に鍵を差し込み、部屋へと入る。
「お付き合いありがとうございました、XANXUSさん」
「……ああ」
ではおやすみなさい、と挨拶の声を聞きながら昨夜と同じやり取りだなとふと思った。…どうか、明日の朝は今朝と同じでなければいいが。
バタンと閉まるその瞬間は少しだけの方が早かった。カチリと静かに施錠した音を確認するとXANXUSもまた音もなく扉を閉める。
後は、夜が明けるまで。ここまで色々とあったのだ、この一夜ぐらいは彼女の身を守るために神経を研ぎ澄ますのも悪くは無い、と思える程度までのことを気に入っていたことは事実。それが例え、明後日以降には途切れる縁だとしても、だ。
「…」
が己の腕から離れた瞬間から感じる、じわりと染み出す痛み。腹の内側から、奥底からの疼き。渇き。欲望に忠実に動くのが元来のXANXUSであったがどうしてだか今回ばかりはそれを良しとはしなかった。
――まさか、な。
そんなまさかと言葉になってしまう前に否定する。そうでなくてはならない。ましてや一般人などと。たかだか数日、イレギュラーな出来事ばかりが起こりを見る時間が増えた為そう思えたに違いない。
イタリアへ戻ればすぐにこの渇きは癒えるに違いないし、しばらくは日本に来るつもりはない。変わった思い出として少しだけ覚えておいても良いと、それだけで留めておかなくてはならないのだから。だからの個人的な事は何も聞かなかった。調べることも出来ないぐらいに何も知らない女である方が諦めもつくだろう。そう思っている時点で先ほど内に湧いた感情の正体が分かったも同然ではあったが生憎と記憶も感情も掻き消すことには手馴れている。
「ざ、XANXUSさん」
だがしかし、XANXUSの思惑通りに全てが運ぶことはなかった。彼女を襲う不運は今夜はこれで店じまい、という訳にはいかなかったらしい。
XANXUSが部屋に入り数秒後、軽いノックの後にひょっこりと現れる。先ほどとまったく同じ格好、何も変わっていないその姿。てっきり直ぐに寝るかとでも思っていたのに己の部屋へとやって来る無防備な女の顔には不安げな表情が浮かんでいた。
何事かとドアを開けるとどうにか一日死守してきた土産の袋を胸に抱え、彼女はその事実を口にする。
「―――私の荷物が、なくなっています」