CoCoon
「…骸さま」
「間違いない、でしょう」
その場所は思ったよりも早く特定することが可能であった。と言うのも黒曜センターから出てすぐに、その香りが充満していたからだ。不安げに振り返るクロームの目はまさかと問うていたが残念ながら今の骸にはそれを和らげる言葉を持ち合わせてはいない。肯定し、焦りを促してしまうだけであったがこればかりは致し方なかった。
決して今の事態が目に見えている訳ではない。
何かが変わったかと聞かれればそれは”匂い”だろう。
犬や千種は全く気がついていないそれは霧の炎を持つ人間だけを誘致する、嗅いだだけでうっかりと理性を手放してしまいそうなほどの甘い香り。腹を減らす香り。しっかりと己を持っていなければあっという間に堕とされてしまいかねないその匂いはいつも彼女に近寄った時に鼻をつくそれと同じものであり、だけど今感じ取っている方が強い誘引力を持っていた。
罠なのかそうでないのかさえ判別がつかない。だけどこの力はとても厄介だ。
この黒曜、及び並盛付近で霧の術士としての十分な力を有している人間がいるかどうかまでは分からなかったがそれでも多少の炎を持っているのだとすれば。
それが骸達のようにその原因を知っていないのだとすれば。
間違いなくこの香りにやられ気が付かぬままに向かうことになるだろう。
――無意識のままの元へ。
近付けば最後、彼女を喰らおうとするに違いない。そして彼女にそれに対する力を持ってはいなかった。
「はあれから学校に…?」
「ええ、お前達でも感知出来なかったということはが言っていた結界にでも隠されていたということだろうが」
今の今までその手段を使わなかったのは自分達を油断させる為だったのだろうか。
元々黒曜、ないしは並盛に張られていたあの糸のようなモノ。琴線のようなアレはを捕える為のものではなく、彼女が何処にいようとも使用者に知らせる役割を果たしていたのだ。
捕まえるにしてはあまりにも微力だったからと高をくくっていた自分に非はある。がフランやクロームと行動している内ならまだいい。が感知しないように作られたその糸は十中八九ディヴィーノの仕業で、恐らく一人で出歩いていたその一瞬を狙ったのだろう。まんまと嵌められたというわけだ。
それであるのならばこの現状は、非常にまずい。
の意志によりこうなっているのか彼女を連れ去った人間がそうさせているのか分からなかったが、そうであってもなくても急がなければならない事態に変わりはなかった。彼女が危ない。これではまるで喰ってくれと言っているようなものではないか。
匂いを頼りに歩むだなんて今まで経験もなく、まるで警察犬にでもなった気分である。しかしながら黒曜センターのある旧国道から新国道へと入り、栄えている方へと向かえば嗅覚などに頼らずとも分かるようになっていた。
「…師匠ー」
分かっている。
並盛に入ってすぐ、既に広がっていた違和感なんて。
ふらり、ふらりと骸達の事なんて目もくれることなく歩み続けている人間達の向かう先なんて。
――…彼らの、所持している死ぬ気の炎の属性なんて。
非常に微量の霧の炎を所持する人間ですら誘うその先は黒曜高校、達の通う学校であった。
そこへ向かっている人数はまだ少ないがそれらはこの事態が解決しない限り減ることはないだろう。徐々に増えていくとなるとすれば非常に厄介なものになる。自分達は兎も角、彼女はヴァリアーに所属しているとは言え認識的にはほぼ一般人と変わらないものだろう。殺すわけにはいかない。何よりも彼女はそれを厭う。
「クローム」骸の呼び声にクロームが前へと進み、その返事の代わりとばかりに三叉槍を振り回し力を行使する。
あくまでも彼らは一般人だ。中にはの友人であったクラスメイトの姿だって見えている。が、今はそんな彼らですらを目の前にすれば牙を剥く獣でしかない。
余所見も、これ以上の油断も出来やしない。ヒュンヒュンと槍をしならせ地面に柄が着いたその時点で彼女の創造は、術は始まっていた。
「…っ!」
クロームが創造するのは一般人を傷つけることなく彼らの行動を止めるもの。
それは彼女が認めた相手以外を決して通すことのない、高々とどこまでも上へとそびえ立つ門。匂いに拐かされた若い世代の人間であれば閉ざされた校門というものがどんなものか分かっていることだろう。門には有刺鉄線が巻かれてあり彼らの行動は止まる。
思い込みとは簡単で単純であり、しかしとても強い力である。
”あの門は、あの棘のついた門は自分達の力では開かないのではないか。”
そう一度でも思ったら最後、その人間はクロームの力で出来た門に触れることすら出来なくなる…クロームが施したのはそんな術であった。
悪くない。
骸は長年共にいる彼女の力を素直にそう評価した。
これであれば多少の時間稼ぎは出来るだろう。ディヴィーノの実態がどんなものなのかは知らないが彼女を攫った罪は重い。
元々生かしておくつもりはなかったことだし寧ろ絶やすつもりだったのだ。それが向こうから出向いてくれたとなれば探す手間も省けたといったところだろうがそれであってもが攫われるのは計算外であり、早すぎた。早く奪還しなければならない。
しかし慌ててもならない。
術士たるものの必要な、無くてはならないものの一つだ。どんな時でも慌てず己を見失うことはならない。術士の戦いはそういう精神的なところで既に始まっているのだから。
「骸様、ここは私が」
「頼みましたよ」
彼女が大きく頷いた事を確認すると人をかき分け門を潜り校舎の中へ。彼らの目的はあくまでもこの匂いを持つ原因であるであり骸達ではなかったからか自分達の邪魔をしようとする者は誰一人いなかった。
コツリ、コツリと靴音を響かせ廊下を歩む。普段であれば制服姿のやフランがいるこの学校は今はただそれだけの場ではなかった。うわーと珍しくも後ろを歩むフランが心底嫌そうな声を出しているのは誰かが力を振るい、場自体が変質しているからだろう。此処は既にいつもの学校ではない。誰か第三者によって異空間と化しているようであった。これ自体が幻術と言っても違いないがそれにしては現実味がある。有幻覚で迷路のように変えられてしまっているのだ。
「…ミー嫌な予感がしますー」
フランの感じたものは正しい。
まるで2人を歓迎しているかのように目の前にぽっかりと開くのは藍色の結界。その向こうはやはり藍色のものであり、この先に居るのは果たしてディヴィーノの人間なのか、それともなのか、罠であるのかは流石の骸でも分からなかった。
しかし一つだけ、厄介な事に気付きギリリと下唇を噛む。
炎を見たところで誰のものかと言うものは分からない仕様ではあるが長い期間彼女と修練を行ってきたからこそそれは骸もフランもすぐに理解した。これは彼女自身の意志であるかどうかは別としても、間違いなく彼女による力であると。
「早くしなければの命も無い、ということか」
は常に炎を最大量で放出することが可能であったがそれは決して生まれながらの奇跡などではなかった。器官を弄られたが故に自身の限界以上の炎を出すことが出来ているだけである。神経系までをも触られているからといっても過言ではない。
非常に厄介だ。
彼女は確かに異常な程の純粋な輝きを、驚く程の炎圧である霧の炎を有してはいるがそれだけではなく本当に限界量が分かっていないのだ。麻痺させられていると言い換えてもいいだろう。己の限界を把握することもできない。そういうところは鈍感になるように成されているらしい。
…つくづく、マフィアというものは勝手なものだ。結局の事を道具とでしか思っていないのだから。
湧き上がるこれは苛立ちか。それであるなら随分と久しく感じるものだ。
『霧属性、13人分。彼女の事を調べたらこれだけ出てきたけれど、…どういう意味だろうね?』
「…急ぎましょう」
もしも万が一、彼女の体内にそれだけの霧属性の人間の力が強制的に組み込まれていたとしてもいずれは底を突く。その前に、彼女を救出しなければなるまい。ディヴィーノから引き離さなければならない。
ある意味一種の賭けではあった。
しかし背に腹はかえられぬ。
両者共に無言で頷くとフランはその場で結界が封じられぬようヘルリングを使用し、骸は単身その藍色の炎の中へと飛び込んだのであった。