CoCoon
名前を聞いたところで彼らから紡がれるものは一つしかないことを長い間あそこにいたからよく分かる。
研究機関もそこにいた大人達も、それから実験に使われいた人達も総称をディヴィーノで統一された、個人の意思など全く必要としないファミリーだ。
私は彼のことを知らないけれど彼が大人である以上、彼らが全てを共有する人間である以上私を知っているのも頷ける。
ディヴィーノではある程度の年齢を越え、それでもまだ生き続ける事のできた子どもが漸くそこで生存権を得る。実験される側から、実験する側へ転じるのだ。私よりも少し年上に見える彼はきっと私たちと同じ歴史を歩み、今また研究する側になった人なのだろう。
「、君は奇跡を呼び起こす至高の器」
「……」
「一口も齧られずに生きてきたなんてホント奇跡だねえ。僕はもう食べたくて食べたくて仕方がないと言うのに彼らには欲望というものが無いのかなあ」
近くまで寄られ、視界いっぱいにディヴィーノの顔。
男からはダラダラと涎が垂れていたけどこれは彼が異常な反応ではないこともまた、私は知っていた。
私が手術によって手に入れた体質。超広範囲魅了。
体内で精製されるというその効果は霧の炎を持った人間のみを誘惑するという香り。当の本人にはもちろん効果はないのでどんなものかは分からない。だけど、この男もディヴィーノの人間であるのならば霧の炎を有している。
そして例に漏れることなくその香りは誰も抵抗することが出来ず抗う術をディヴィーノ内でも作られてはいない。まさに私を食べようと、飢餓状態に近い。
「ヒッ!」
顔が更に近付いて来たかと思えばベロリと頬を舐められ、その得も言わぬ感触に思わず身体が竦み上がる。
動かせる範囲で身体を揺するけどそんな抵抗は抵抗とも言えず彼の行動は止まることがない。伸し掛かってくる彼の身体。
嫌だ。
叫びたくても声が喉に張り付いて思うように出ない。気持ち悪い。怖い。嫌だ。怖い。
カタカタと震える体。制服のシャツに手が掛かりするすると外気に触れた肌を撫ぜる指。ポタポタと何か温いものが首に垂れるのはディヴィーノの涎なのか。私の視界からそれは見えることはなく、ただ彼の白髪が見えるだけ。
「……っぁ゛あ!」
食べられると危惧し目を瞑ったと同時にヂリリと激しく痛む首筋。
噛まれている。それはすぐに分かった。
甘噛みなんてそんなレベルじゃない。食い破ろうとしているような痛みが襲いかかり、だけど拘束が解かれてもいない今、手も足も出ないまま身体を硬直させるしか私には手段がなかった。
痛い。
痛い、痛い、痛い!
死ぬなら、殺すつもりなら一瞬で終わらせて欲しいとそう思えるぐらいの恐怖がじわじわとせり上がっていく。痛みに涙が零れ、呼吸することもままならない。情けない声がかろうじて喉から絞り出されるようにして出るだけでディヴィーノの動きは止まることがない。
食べられるなんて誰が思うだろうか。齧られるなんて誰が思っていただろうか。こんな誰も居ない場所、この痛みとともに私は死んでいくのか。
「流石だねえ」
だけど永遠に続くのかと思われたその痛みがピタリと止んだのは唐突だった。
じゅう、という啜る音が耳に響く。既に咀嚼が始まりとうとう痛みに麻痺し始めているのかと思いながら、ディヴィーノの顔があげられるのを間近で見た。
楽しげに釣り上げられたその唇からは血が滴っている。私の血なのかと思ったけれどどうにも彼の口内から出たそれは一筋だけで、違うのだとなんとなく把握した。
「っ!」
突然私を拘束していたベルトが外れたのはその時で何が起きているのか分からないままに反動をつけディヴィーノの身体を蹴り上げ台から滑り降りる。
ずっと横になっていた所為かフラつく身体。足に力を込め何とか立ち上がり、台を挟んでディヴィーノを見た。
不愉快、不快。
そんな感情を抱えた彼は腹から何かを突出させ、そこからジワジワと赤いものが広がっていく。刃物だ。あまり長い時間見ていられないそのグロテスクな光景に、だけど見覚えのあるソレに私の視線は釘付けになる。
彼の意志で出ている訳ではないそれは、…その、貫通し此方に見えている槍先に見覚えがあった。
「やっと見つけましたよ」
コツンコツン、広々とした洞窟内に響く靴音。
聞き覚えのある、何度も聞いてきた、落ち着く声音。
ディヴィーノがやってきた奥の扉、そこからやって来た彼は幻術なんかじゃない。そう思えたのはどうしてなのか自分でもよく分からなかった。ただの直感。理由なんて何もなかった。来てほしくない。そう思っていたけどその根底では情けないことに助けを求め、そして此処に居る彼は間違いなく私が願った人だった。
何も考えることもなく地を蹴り、骸さんの方へと走り寄る。会いたかった。怖かった。だけど彼はどうして此処へ。どうやって、此処へ。
近寄り、見えた彼の姿にハッとして立ち止まる。
「…骸さん、それ」
「ただのかすり傷です」
私の記憶の通り微笑む骸さんは怪我を負っていた。
服は至る所に焦げたような後、破れ合間から見える肌には所々で血が流れている。
…私の、所為だ。
さっきまでクロームの幻覚に惑わされていたけどこれは、彼の怪我は本物だ。それもここへ来る少し前に受けたものであるに違いない。
恐怖から逃れられた安堵と、自分の所為でという後悔と。複数の感情が綯い交ぜとなり、だけど彼に近付きたいと願った気持ちは本物で一度動いた足は止まらない。
「」
ほら。手を広げられれば、抗うことなんて出来やしない。
私だってそれを望んでいる。あともう少し。…あと、もう少し。駆け寄り伸ばした手は、けれどそれが適うことはなかった。
「君には渡さないよ六道骸」
パチンと男が指を鳴らした音が響き私は真っ白な視界に包まれた。
私と骸さんの間、私を取り囲むようにして現れたソレの材質は触れて理解する。糸だ。私のいる空間を囲うそれは柔らかな白く細かい糸。それでいて私がこれ以上前に進むことを許しはしない厄介な小さな結界。空間。
外側にいる骸さんの大きな手が、彼の手元にある槍が激しく音を立て攻撃する。けれど揺らぎもしないそれの創造主は大きな声で笑っているディヴィーノ。
ならば、これを解く方法は――…倒すしかない。それは今、誰も言わずとも分かっていた。
「僕達の可愛いディヴィーノ、しっかり僕の勝利を祈っておいてね。君を閉じ込めた繭は絶対内側から開かないようになっているから僕の援護をしてくれてもいいんだよ」
「誰が!」
噛み付くように返し、内側からもう一度大きく叩く。
これは私を攻撃するものじゃない。今から行われるだろう骸さんとディヴィーノの戦いから私を守るもの。それから、
「……少し待っていなさい、」
もしもがあった場合の保険。骸さんを脅すための道具。
そんな事が分かっているというのに閉じ込められて大人しくしているわけがない。
「すぐ終わります」といつもと変わらない優しげな表情。ディヴィーノの力はそれほど強くないことも知っているし骸さんの力は紛れもない本物。勝つのだと信じている。
分かっている。
この幻覚と有幻覚の混ざりあった場において信じる力こそが源。強さの秘訣。
大丈夫、骸さんは勝つ。……だけど。
「…」
今までなら受け身で、大人しく待っていたかもしれない。
暴走に怯え力を振るうことなんてできやしなかったかもしれない。けれど祈っているだけのお姫様じゃいられないの。
――…何の為に私はここまでやってきたの。
私は皆と肩を並べる術士になるんだ。沸沸と湧き上がる力。その源は、信じる力。
負けたくないという力。
皆と共にいたいという願いの力。強い術士にならなくちゃ。ならなきゃならないんだ!
だから、私は大きな声で叫ぶ。
「先生!」
空気を震わせるほどの大きな声。
彼女がそれ程までに自信に満ち溢れた声量で自分を呼ぶ日が来るなんて思ってもみなかった。
は無事だった。
しかしその首はディヴィーノに噛まれたのか酷くくっきりとした歯型、それから所有の証。赤い痕が沢山ついたその白い首に何も思わなかった訳ではない。
もちろんの意志ではないことも知っているし先ほど骸が三叉槍をディヴィーノの腹に刺さなければ本当に首を食いちぎられていたかもしれない。内心は、非常に穏やかではなかった。
普段から感情の起伏が激しい訳ではない。
しかし彼女に関わればそれはたちまち消え去り、嵐が起きる。そしてそれを鎮めることができるのもまた、彼女だけだった。先生と呼ばれたのはいつぶりだろうか。彼女はこの場であるにも構わず声を荒げ、骸へと呼びかけている。それは決して自分が負けるだろうと焦っているわけではないと分かっていた。
彼女もまた、戦士なのである。
戦う為に立ち上がる、強い術士となっていることはこの時点において骸が一番理解していた。
「私、先生のあの時の言葉を信じていいですか!」
「ふふ、君、先生だったのかい。そりゃあ面白い」
くつくつと喉を鳴らし笑う彼の腹から三叉槍が引き抜かれ、こちらに向かって投げつけられる。彼女を繭の中に閉じ込めておきながら彼女を賭けて戦えと言っているのだ。
いざとなればあの繭ごと自分を脅す道具として扱うつもりだが、成程それも確かに今の骸にとっては効果的だろう。
ディヴィーノがあのの記憶の回廊から姿を消した後、キメラは骸へと襲い掛かってきた。その後のことは正直覚えていない。
――…無我夢中。その言葉通り、どうやってこの場所までやってこれたかすら覚えていない程に、一心不乱に敵を屠り走り続けた。
この自分が。ボンゴレの霧の守護者と畏怖される自分が、たった一人の女の為に身体を張ることなんて誰が信じようか。しかし自分にそう行動させたのは紛れもなくへの想い。
そして、彼女が立ち上がり戦おうとするその姿勢も、恐怖に身体を震わせながら自分を呼ぶそれもまた同じものが含まれていることに気がついていた。だから分かる。だからこそ彼女の考えは分かる。
知らないのはこの男だけだ。これは、彼女と自分の間にある確固とした絆なのだから。
「だけどそんな状態で幻術を作るなんて無謀だよ、。君は六道骸を殺すつもりなのかな」
「試してみましょうか」
分が悪い。
一般的に考えるのであれば確かにそうだろう。
この場はの力に依存して出来上がった、実際はテレポートした訳でもなく黒曜高校の何処かに通ずる有幻覚と幻覚の混ざった男の創造力との記憶を混ぜ込み作り上げたディヴィーノの研究施設。そして彼女の力を用いているのはディヴィーノ。場の、力の供給源はであり、支配者は男の方なのだ。
だからこそ男は油断した。
彼女は六道骸がいるから故に力を発揮できやしないと。味方である骸に対し攻撃があたるような技が出来る訳がないと。そんな創造が出来る訳ないと。
―――六道骸がいるからこそ、そもそも力を使う事など出来やしないと。
経験と知識は違う。
ただの師弟だと勘違いした男、その読みこそが敗因であった。ディヴィーノの血に濡れた三叉槍を構え、石突きを地へと軽く叩きつける。
それが、自分達の口を開く合図。
「「イメージは湖。」」
重なる声と共にこの場は大きく変化を遂げる。
世界は暗く染まり洞窟内が突然違う世界へと変わっていく。自分達の足元には凍りついた湖が広がっており恐ろしい姿形をした水魚が餌を求め弱肉強食の世界を繰り広げていた。流れ出る血。溢れ出る血。自分達の足元はすぐに真っ赤へと染め上げられていく。
「なっ」
見開くディヴィーノの顔はなかなか見ものであると骸は思い、それに同調するようにも繭の中で笑みを浮かべる。しかしその創造はこれだけではない。
周りで生い茂っていた草木は急速に枯れ始め、蛇がディヴィーノの足元に絡みつき、やがて近くに落ちている髑髏へと入り込み爛々と目を輝かせながら男を、この世界においての敵を睨んでいる。
さえずる小鳥の声が聞こえなくなったと思えば目のところが漢数字で描かれた白い骨のようなもの、骸の創造していた喰骸鴉に無残にも引き裂かれ死体や内臓は近くの木々につるし上げられ周りは一気に黒と赤が支配する阿鼻叫喚の図へとなっていた。
現れたのはいつぞやの骸が、そしての精神世界での修練によって作り出した幻術の数々。
普通であればありえないだろう。精神世界での事をこの現実の世界に顕現することなどできなかっただろう。否、このような物を創造することすらそもそも不可能であっただろう。
しかしそれは普通の師弟であり、普通の修練を重ねている者であったならばの話でありそして自分達にそれらは一切通用しない。
恐ろしいバケモノが踊り狂う場所。修練で何十回も、何百回も行われていたもの。嫌でも忘れることのできぬ創造の数々、互いが互いを理解した上でのその行動。
「ば、…ばかな!」
――もっとも男の胸を鴉が1匹、その鋭い嘴で貫いているそれは骸が単独で行ったものではあったが。
「クフフ、を信じた結果ですよ」
しかしそれ以上は説明することもあるまい。このような大胆かつ破天荒な突破方法は後にも先にも今回だけであろう。
『僕が君を守ります。は安心して、…僕の、側に』
いつかの言葉を意味を少し違え実践することになるとは思ってもみなかったが確かにそれは果たされた。この世界の、力の源は。そしてその彼女の周りを守るかのように力を振るうのは骸。繭を破壊し、は起こる全ての事象に身を委ね骸の腕の中に飛び込む。その柔らかい感触に知らず知らずのうちに笑みを浮かべた骸は彼女と共に創り出した蓮の中に居た。
これは繭等とは比べ物にならぬ強度であり、自分を、自分達の邪魔をする者を決して許しはしない蓮。結界。そして、終わらせる為の場所。
「…行きますよ」
「はい、先生」
を抱きしめ男に対し槍先を向ける。照準は決して外れることはない。
動揺し、慌てふためいた男などもう何も怖いものなどあるものか。腕の中にいるが震える手を伸ばし、骸の槍へと手を伸ばす。
残る憂いはただひとつ。ひたりと見据えた先にいる男は楽しげに、楽しげに大きく手を叩き赤い瞳を細めながら声を張り上げる。
「…アハハハハ!、君はやっぱり至高の器だ!僕じゃないディヴィーノがまた君を求めやってくるだろう!!それまで元気に生きておくといい!アハハ、アハハハハ!!」
もう二度とこのような事がないように。
二度と、君に災いが降りかからぬように。
「堕ちろ」
巡ることすら赦しはしない。
男の高らかな笑い声はやがて悲鳴へと変わり、そしての創り出したキメラによって身体ごと飲み込まれ辺りは闇に包まれたのである。