「…ベル隊長?」

雨音を聞きながらいつの間にか少し目を瞑ってしまっていたらしい。薄い壁の向こうで何が聞こえたとしても自業自得だなんて、やや自嘲気味に笑いながら。彼女がスクアーロの部屋に入ってからどれぐらい経過したか分からないがそんなに長い時間ではなかったことだけはわかる。
頭上に降りかかる声にバッと顔を上げるとそこには不思議そうな顔をしたの姿があった。先程スクアーロの部屋に行った時は足元が光っていたが今はそれもなく、周りは薄暗い。


「…どうしました?」
「何で、お前」

あいつの部屋に入った筈じゃ、という言葉は飲み込まれた。スクアーロの部屋に入ったのを見てしまっている以上、問い詰めたりするのも馬鹿馬鹿しい話だ。
認めたくはないが嫉妬を抱いているのは確かなことで、しかしそれを彼女には悟られたくはないという小さな意地もあった。


「ああ、これです」

平静を保とうとするも自分の声が掠れていたことが情けない。問いかけながら彼女の衣服や髪に一切の乱れがないことを確認するあたりどうしようもなかった。
そんな視線に彼女は気付くことはなく、大事そうに抱きしめた厚手の本を誇らしげにベルに見せる。そこに印字されていたのはアオギリの名前。確かの父親の名だったか。
まさか、もしかして。目を見開くベルに、は嬉しそうに話し続ける。


「父さんが使っていた部屋が今、スクアーロ様のお部屋だとレヴィ様から本日教えていただきまして」
「…」
「私、居てもたってもいられなくて。スクアーロ様は確か明日も早朝から任務でしたし、今しかないと思って」

珍しく興奮している節がある。彼女がこれほど自分の話をすることがあっただろうか。
先程自分のことに気付かなかったのも親の事で頭がいっぱいだったのだろうか。嬉しそうに物を抱えるを見て怒る気も、詰め寄る気も失ってしまった。つまり彼女は自分の親の持ち物が未だにスクアーロの部屋にあると思ってこんな夜中まで彼の任務帰りを待ち、そしてそれを受け取りに行っていただけで。

先ほどの、自分の落ち込みは一体何だったのだろうと。勝手に思い込んで、嘆いて。ずくりとした痛みは何だったのだろうと。
けれど彼女が自分のものでないことは確かだ。誰のものにもしたくないと、確固たる気持ちが自分の中に出来上がっていた。に気付かされた。


「…おまえさ」

何時の間に、これほどまでに弱くなってしまったのだろうか。内心苦笑しながらの抱える荷物ごと、彼女の華奢な身体に腕を回す。
びくり、と揺れるもののどう反応していいのか分からないといった様子ではされるがままになっていた。少し身体を強張らせてはいたが防御壁の構築される素振りは見当たらないのを良いことに、首元へ顔を埋め大きく息を吐く。溜息ではない、安堵からくるものだ。


「こんな時間に男の部屋とか行ってんじゃねーよ」
「?確かに異性ではありますが、私だって人を見る目はありますよ。危なそうな方の部屋へは行きません」
「…」
「…確かに私もスクアーロ様に怒られました。男は全員狼だぞー、なんて」

その例えもきっと彼女はわからないだろう。スクアーロにそう言われたとき、恐らく彼女は頭の上に盛大な疑問符を浮かべたに違いないとすぐに思い浮かんだ。彼女の事は、まだ全然、分からない。
荷物を抱えたままのが不意にくたりとベルへと頭を僅かに寄せた。甘えてきた訳ではないことは分かってはいるが、それでもこの行為が嫌がられていないのと彼女から近付いてきたことに安堵と思いの外心地よさを感じたことは確かで。


「…ごめんなさい、心配かけしました」
「心配なんてしてたわけねーだろ」
「スクアーロ様が仰ってましたよ。殺意は綺麗に消しとけよって」

あんの鮫野郎、と呟きが小首を傾げた。
もしかするとスクアーロがの肩を抱いた時に無意識に湧いていたのかもしれない。ベルへの挑発だったのかもしれないが、まんまとやられた訳だ。


「ところでベル隊長、何だか体が熱い気がするんですが熱でも」
「なわけねーじゃん」
「失礼します」
「っ」

ふわりと彼女の髪からシャンプーの香りがしてクラクラする。情欲が湧いてしまいそうになるのをこらえようとしているというのに、そんな事に気付いてもいないは片手でベルの前髪をあげて己の額とあわせた。
普段から自分の髪を他人に触らせやしない。もしが日中に触れようとしたところでそれは武器を使ってでも阻止していただろう。だけど今は違った。触れたくて仕方のないものが自分の意志で己に触れている。息が詰まりそうだ。

ちらりと視線を彼女へ。
目の前にある、彼女の長い睫毛が。静かな呼吸が。赤い、唇が。
それはある種拷問のような、短いようで果てしなく長く、そして甘いようで苦しい時間だった。ごくり、と生唾を飲む音は彼女に聞こえてやしないだろうか。
離れた彼女の熱が惜しいと追いかけそうになる手をは逆に掴んだ。「高熱です」彼女の言葉。いやそれは恐らく今のが原因で。
そう言い返そうと思ったのに必死の彼女の様子に次の句が次げず。


「部屋までお送りします。こんなところにいないで早く寝てください」
「一人で帰れ「お送りします。部下に心配をかけさせちゃいけませんよ」」
「…」
「…倒れそうなら背負いましょうか?私これでも力には自信があるんですが」
「……いらねーよ」
「そうですか」

それでも不安そうに横をついてまわるものだからの空いた右手を己の指と絡めて。
一瞬驚いた表情を浮かべたがこれで転んでも平気ですね、と微笑んだを見ながらこの浮ついた気持ちをどうすべきかと逡巡した。


ヒート・アップ
「ベル隊長のお部屋も広いんですね!」
「あー…うん、まあ王子だしな。あとお前もう絶対あいつの部屋は行くなよ」
「?」
「…俺のとこならいつでも来ていーからさ」