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本当は、心の底で何となく分かってはいた気がする。
この時期、まもなく訪れる進級以外特別大きな学校行事もなければ、沢田達側についているわけでもない私が漫画に描かれていた非日常を目の当たりにするわけがないということを。

私が来たことで何か変わるだなんて考え自体がおこがましいことこの上なかった。
私という異物を受け入れて尚、この世界は、不変。

それでも、花弁と、恭弥のこの様子を見て初めて気が付くなんて私はどれだけこの平穏に甘えていたのだろう。

恭弥が今感じている気持ち悪さの原因は、桜クラ病。確か花見の際に恭弥がシャマルによってかけられた奇病だ。
隼人から誘われたものと、恭弥に誘われたものがどうして同日の同じ場所だったと気が付かなかったのだろう。


もちろん私がそこにいたとして何も変わらなかっただろうけど、この怪我は少なくとも私が関わることを許さなかった何かの意志すら疑ってしまうぐらいタイミングがよかった。


「…泣いてごめん。さ、部屋に戻ろ」

未だに流れる涙を手で拭いとってから顔を上げる。
恭弥の手を引いて部屋の中に誘導し、窓をしめるとカーテンを思いっきり引いた。外の光が入らなくなり一気に部屋が暗くなる。
原因である桜から離れればきっと、いずれは元に戻るはず。徐々に引いていくものなのか、すぐに無くなるものなのかは分からないけれどこれがきっと一番の対処法だろう。


座って」
「わっ、」

恭弥をソファに座らせて薬箱から何か効果のありそうなものを探しに行こうとしたのに、そのまま手を握られ隣に座らされた。
何をするのかと抗議しようとするも何故か頭を撫でられて、そうしてここにきて1人で暴れてた思考がようやく落ち着いたことに気付いた。

こんな時まで、恭弥に気を遣わせている。身体が辛いのは彼の方なのになんて情けない。


「ほんとごめん」
「謝ることより、他に何か言うことないの」
「…え、」

頭に触れていた恭弥の手がゆるりと移動して、さっきと同様私の頬に触れる。
桜クラ病がどういった病気だとかそういったことは私は覚えていない。
それでも辛さを隠しきれないその顔色でも、こちらを見るその目は冗談も何も感じられず、そうして何故か昨日からやけに距離が近いことに気がついた。…昨日やっぱり何か私はやらかしたの、だろうか。


「何かって、」

彼の眼差しに、さっきのことを思い出し鼓動がまた早鐘を打ち始めた。
不意に理解してしまった桜クラ病のことで頭がいっぱいになっていて色んなことを考えるのをやめてしまった所為で、考え得なかったこの展開に完全に思考が止まってしまっている。


「…あの、」

言葉が続かずその後沈黙が訪れた。
同時に二つのことを解決できるほど頭の回転が早いわけでもなければ、どちらかの問題が簡単なものでもない。
そんなよく分からない状態の私を見る彼の目に、私は違和感を抱いた。…彼はこんなに優しい目をする人 だったっけ。
初めて会った時は、射殺されるかと思ったぐらい鋭い目をしていたというのに。


が静かで気持ち悪いんだけど」
「ひ、ひどっ」
「…そんなにさっきの嫌だった?」

ご機嫌はあまりよろしくないみたいでぎゅむっと両頬を片手で挟まれた。痛い。
逃げられそうな様子は全くない。初めて彼と応接室で会った時みたいだ。もちろん、あの時とは大分状況が違っているわけだけど。


「…そうじゃ、ない」

それでも私はそれ以降の言葉を発することを、躊躇ってしまう。
どう彼に伝えるのが最善の道なのだろう。私は恭弥を傷付けたくないし、怒らせたくもない。出来ることなら嘘もつきたくない。それに加え、先ほどのあの件は嫌だったわけじゃない訳で。


恭弥が今私に問いかけている点のみでいうのであれば、とても簡単なことだ。
いつの間にか、私は彼のことを好きになっていたのだから。


「(そうじゃない、けど…)」

それは紛れもない事実で、それでいて単純ではいられない悲しい現実が待っているだけだったのだけど。