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この世界に住み続けているのであれば避けては通れない道だった。分かっていた。
こういう話を、いつか本人達にいわなければならない日が来ることは知っていたというのに私にはまだ覚悟が足りなかった。ひとつも歪曲することなく彼に話を伝えることができるのであれば伝えて楽になってしまいたいという気持ちもある。
…そんなの、無理なわけで。逃げることばかり思いついてしまう。本当嫌な大人になったものだ。


「そうじゃない、けど何?」

だけど目の前にいる恭弥はそんな逃げ腰の私を許すわけがなかった。こういうとき、このまっすぐな目の人は強いなあと思う。そういうところに惹かれたのだけど。


「…本当の私は、押切じゃないんだよ?」

未来を知っているということは必ずしも幸せなことではない。

きっと私がここで、ここは私にとって漫画の世界なのです。だから何でも知ってます。
貴方の病気はこれで、でも安心してください。恭弥はいわゆる黒曜編で日本にやって来る六道骸にボコボコにされたあと処方箋が配られます。なーんて、言えるわけない。
その前に私がボコボコにされるだろうし、そして信頼も失ってジ・エンドだ。それで元いた自分の世界に戻れるとしてもきっとその選択だけは選ばない、だろう。

今後の展開が分かっているなか私の居場所はどこにもないことに変わりはない。あくまでも、この世界に存在することを許されただけ。
いずれ私は押切という、本当にいるかどうか分からない応接室で以前見たあの写真の彼女にこの今の場所を返し、元の世界に戻る。それが私の憂いのひとつで、それが全部でもあった。
だというのに、真面目に返した私に対して恭弥ときたら鼻で笑う。


「関係ないね」
「だって、そんな、」
「僕はが違う世界から来たとしても、年上だったとしても、君の今の姿が君のものでなかったとしても関係ない」

世界というか画面というか、紙というか。次元というか。口に出してしまいそうになる言葉を飲み込む。
存外大きなスケールで告白されてるのだと分かるけれど、これですら誰かが彼の感情を歪めてしまったのかと疑ってしまうぐらいに私は…桜を見た時、一番に覚えたのが恐怖、だった。

わたしはこの世界にとって居ないのが当然の存在で、異質で、そして当然のことながら帰るべき別世界がある。
それを、私がいることで歪めてしまったのならば。決められていた物語を変えかねないことをしでかしてしまったら。その恐怖が、私に次の行動を抑制していた。


「でも、」

ああ、でもそうだ。それでも関わろうとしたのは私だ。
こうやって、何があったのか分からないけれど恭弥が気持ちを告げてくれて、それなのに私が今やろうとしていることは何かしらの理由をつけて、逃げることだった。


「さっきから、でも、とかだって、とか五月蝿い」
「…すいません」

楽しげな顔から一転、突然真面目な顔になって私を見る。強く両頬を握られていたその手は少し緩められ、見つめ返す。
その目はかつて見たことのないほど優しさが含まれていて。


「嫌では、無いんだね?」

それは、質問というより最早確認。
私に是も非も言わせずにいてくれたのは彼の優しさだろうか。触れられた頬が再び熱を帯びてきたことを感じながら恭弥と目を合わせて頷くと、彼は思わず見惚れてしまうぐらいの綺麗な笑顔で微笑んだ。

いつの間にか顔色も良くなった恭弥はそれにと言葉を発す。


「そんなこと小さな事ばっかり気にしていたら何も出来なくなるからね」

変なところで恭弥は大雑把だ。
私もそれを見習いたいと思う。猛烈に。

(彼の一言で、こんなにも心が軽くなったけれどお礼の言葉がどうしてだか口に出せなかった)