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『おかえり、恭弥』

荒々しく扉を開けるといつも出迎えてくれる声も人影もない。
食事を作っている最中だったのか後は焼くだけとばかりに赤い色をしたハンバーグがフライパンの上に投げ出されていた。何か買い忘れでもあったのだとしてもドアには鍵がかけられておらず、部屋は電気もついているなんてこんな不用心なことをするではないことは雲雀自身よく分かっている。

再び玄関口へと足を運ぶとの靴は綺麗に揃えて置いてある。
間違いなく彼女は靴を履いて何処かへ行ったわけではないと理解したその時に、ふわりと香るその芳香に眉根を潜めた。決して不快とは言えないそれは、しかし雲雀の中にあった不安を増長させるものでしかなく、そして最近は嗅ぐこともなかったそれはどこのものであるか、知っている。何故ここでこの香りが。

他に何かないのかと辺りを見渡せばさらにこれも不用心なことに靴箱の上に1通の開けっ放しになって封筒が置かれていた。誰宛のものか分からなかったが構わずに開く。そこに入っている彼と、が2人で撮られている写真と、一言書かれたメモに僅かに目を見開いた。

まさか。まさかまさかまさか。

さっきの男の怯えた顔。何でお前がここにいるのだと口走ったあいつらのあの言葉。
――この違和感は、この謎は前に感じたことがなかったか。

風紀委員の人間を魅了した、自分の姿をしたあの子がやってきたあの時のあの状況に、似ていないだろうか。
ぐしゃりとメモを片手で握り潰しながら静かに呟いた。


「……咬み殺す」



「…いたか!?」
「いないぞ、何処に消えた!?」
「絶対に瀕死か、そうじゃなくても骨ぐらいは折れてるはずなんだ。探せ!」

フェンスが、雲雀が落ちた音はしっかりと聞いたが流石に落下している瞬間は誰もが無言で彼らの中に残っていた僅かな良心とも言えるそれが自分たちのやってしまったことを苛んでいた。
しかし屋上から懐中電灯で落とした先を探しても手負いの雲雀の姿は発見されず、慌てたのは落とした当人達だった。

流石にあれほどまでに痛めつけた男を屋上から落とせば入院レベルに違いないと思った。それで自分たちは満足できたと思っていたのに。

なのにこの違和感は何なのだ。
どうして落ちる瞬間のあの時まであの男は自分たちに対して命乞いでなくあんな笑みを浮かべながら指を差したのだ。
男たちの脳裏に一つの仮定が生まれる。

…もし、生きているのであれば?
あの暗さであったとしても恐らく彼は言っていたとおり自分たちの顔を覚えたに違いない。
例え一部が卒業生だったとしても、隣の学区の学生だったとしても探し出して自分達に報復に来るだろう。自分達がやってきた分の、その報復を。
――それは、つまり。
その恐怖が彼らの判断力を鈍らせていた。


『君達を、絶対に赦さない』
「…殺して、しまわないと殺される」

男たちが集まったのは恐らく雲雀がそのまま落ちた場合、倒れているであろう場所だった。
雲雀とともに落ちたフェンスは確かにそこにはあったが草木を掻き分けても肝心の彼の姿は見えない。
死体で見つかってくれた方がどれだけ落ち着くだろうと皆が望んだ。それだけ彼らの恐怖はもう限界まで膨れ上がっていた。

上を見ても木枝に引っかかっている様子は無い。どこに行った。どこへ消えた。
リーダー格である男がふと地面を見て血痕に気付き後ろにつく男達に声をかける。殺される前に、殺してしまわなければならない。今日の雲雀は何だか前に会った時とは違って逃げてばかりだし既に怪我だらけにしているのだ。勝てるかもしれないと思ったのは当然のことで。
片手にジャックナイフ、鉄の棒、後ろにはスタンガンを持つ後輩だっている。大丈夫だ、負けやしない。銘々に持ってきた武器を構えながら歩む。
これで自分たちは救われるのだ、と信じてやまず、そしてその血痕が消えたその先には、


「ひ、雲雀!?」

自分達の探していた相手が、何気なく立っていた。
驚いたのは男達の方だ。ナイフで刺したはずの頬が、裂いたはずの腕が、殴ったはずの身体が、血に染まっていたボロボロのワイシャツが、全て綺麗な状態で、まるで怪我なんてしてもいなかったといった風で立っていたのだから。
そんな男達の動揺など露知らず、それでいて無表情でこちらをジッと静かに睨んでいた。溢れんばかりの殺気、確かにこれは雲雀恭弥に違いない。それにその手にはさっきまで持っていなかったはずのトンファーが鈍色に光り輝いている。死神はいつなる時も美しい。

ああ、終わった。

誰もが過去に雲雀から何をされたのか思い出し絶望を感じながら声も出ない状態で、
けれどリーダー格である男は最後の足掻きで声を張り上げる。


「テメエはやっぱり化物か!さっき今あれだけボコしたってんのに…屋上から落としたってんのに何で血も怪我もないんだ!?」

半ば絶叫だった。この混乱と恐怖の中だ、致し方あるまい。

しかしその言葉だけで闇夜を疾走してきた雲雀は把握してしまった。
血相を変えたこの男達が持つ武器の意味を。怯えた意味を。彼らに付着している血は決して彼らのものではないことを。
…彼女が何をして、何をされたのかという事を。

すぅと目が細められる。


「あの子を何処へやったの」

トンファーを構えた雲雀の酷薄とした笑みは別人であったとはいえある意味先程ぶりだったが、それを感じる前に彼らの意識は痛みと共に吹っ飛んだ。