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意識がゆっくりと浮上した。
目蓋を開くと頭上には立派な満月が夜空に浮かんでいる。異常なほど周りは静かで何の音もしない。


「……生き、てる」

その事に一番驚いていた。
かすれた声で呟くと何かが喉の奥からせりあがりゲホッと咳き込めば拭ったシャツの袖が真っ赤に染まる。…さすがに、無傷ではいられなかったらしい。

安全装置なしの飛び降りはこれが人生で最初で最後であって欲しい。
あの後、フェンスごと落ちた私は一気に落下することなく青々と茂った大きな木に一度引っかかり、それからゆっくりとずり落ちるようにして落ちていった。最終的に私の下敷きになってくれていたフェンスは自分の膝丈程度の植木の上で動きを止め、地面に直撃することだけは避けられたようだった。
例え頑丈に出来ていたとしても打ちどころが悪かったり、もしも何かが身体に刺さったら流石に死んでいただろう。何というか…運が良かったとしか言えなかった。

ゆっくりとフェンスから身を起こす。一体ここは何処だろう。学校の敷地内ということはもちろん分かってはいるけど電灯もないこの場所の把握はなかなか難しい。
ぼんやりと見える屋上からはチカチカと光が見えた。私が落ちているかどうか確認しているのかもしれない。今度こそ見つかったら終わりだろうな…。


「(逃げ、なきゃ…)」

近くの木に手をやり、立ち上がろうとすると身体中がビキビキと鳴りカクンと膝をついた。尋常じゃないほどに重い自分の身体はそろそろ限界に近い。
まるで泥の中を歩いていると錯覚しそうな感覚。これじゃ学校の外になんて移動も出来るはずもない。諦めて近くの木に座り込む。


「…っ、ぅ」

あまり痛くないのは致命傷すぎて麻痺をしているのか、お得意の痛覚が云々なのかもよくわからなかった。こっちの世界限定だけどスタントマンになれそうだよほんと…やりたくないけど。
もう、でも私もここまで…かなあ。なんて今夜奮闘してきた事を考えると自分のことながら色々と褒め称えたくなった。すごく、眠い。くたりと木に身体を預けて、その眠気に抗えず、……


ブルブルと携帯が震えたのはその時だった。
胸ポケットに入れているのをすっかり忘れていた。どうも殴られたときも、屋上から落ちたときもそれは奇跡的に私のポケットから滑り落ちることはなかったらしい。
重く感じる腕で携帯を開く。
当然のことながらディスプレイに表示されていた名前は恭弥だった。そもそもこの携帯には彼以外登録はされていない。


『どこにいるの?』

ピッと押すと機械越しのいつもとは違った、でもいつもと変わらない静かな声。
名乗ることもなければ私の名前を聞くこともないその様子にいつもの恭弥だなあと思うと少しだけ笑えてきたけど腹を振動して身体がまたビキビキと鳴る。
この間に誰かがやってきたらどうしよう、なんてことも考えなかったわけじゃない。だけど体力も気力も全部使い果たした今、もう何が起こっても抵抗する術はなかった。


『君を追いかけていた連中は追い払ったよ。話せるかい?』
『きょ、うや…』

ハァ、と電話口の向こうで溜息が聞こえた。


『その声、やっぱり僕の姿になってるわけ』
『あ』
『…怒らないから今どこにいるか言いなよ』

私にとって私の声だけど彼には男声に聞こえ、恭弥自身の声であるとすぐにわかったらしい。
電話をしてきたということは、…あの後、鉢合わせしてしまったのか。倒したって事は、私は助かったのだろうか。結局、恭弥の力を借りて?はは、情けない。


『体育館の近く、の…桜の、』

辺りを見渡しても大きな桜の、もう夏の葉に変わりつつあるその木の下にいることしかわからなかった。
それでも何とか告げると「分かった」とだけ伝えられ、それでも電話は切られることもなく繋がったまま移動の音がその電話口から、そして携帯から耳を離すと誰かの走ってくる音が聞こえる。


―――ザッ。




肩で息をした恭弥を見るのは初めてだった。

周りにはたくさん似たような木があるのに、私の格好は暗闇に溶け込んでいるというのにそれでも迷うことなくこちらへと歩み目の前で立ち止まった。座り込んでいる私を数秒間、何も言わずに見下ろしている。
驚くほど無表情だったのにどうしてだか怖くもなく私もそれに対して静かに見返していた。静かに地面へと片膝をつき、私の視線を合わせる。指が伸ばされる。いつもは冷えたそれが走ってきたせいなのか少しだけ温かい。
フラついた様子も見当たらず、この暑さに、さっきまでの移動に少しだけ汗をかいていたけれどそれ以外何も変化は見当たらず夏前の葉桜は桜クラ病の対象ではないんだな、なんてどこかで思いながらその指がゆっくりと私の頬を這うのを受け入れた。

相変わらず言葉はない。
指は力強く私の顔のラインをなぞった。まるで私がここにいることを、確認するように。


「…生きてて、よかった」

その身体が少しだけ震えていたことに気付いたのは恭弥に抱きしめられたからだった。
ぎゅううと強く私を抱きしめるその様子は例えば恋人同士が交わすような柔らかく甘いものではなく、本当に私の無事を案じてくれているのだとすぐに理解すると私も彼の背中に手を伸ばしながら心の中で謝罪する。


「(ごめん、なさい…)」

あなたを困らせるつもりはなかったの。
だけど私が居なければ、この危機は貴方に降りかからなかったこと。だから、怖い思いをしたし申し訳ない気持ちはあったけれど悔いはなかった。…あなたに、大きな怪我がなくて、本当に。

恭弥に抱きしめられたことでさっきまでのことが一気に思い浮かんできて、視界がじんわりと潤んだ。それに気付いたのか身体を離すとその指で私の涙を拭う。優しい動作だった。
「帰ろう」静かに呟かれ、有無を言わさぬその言葉に素直にうん、と小さく頷く。それと同時に、ふわりと身体が浮き上がる。いわゆる突然の横抱きに声も出ず目を大きく瞬かせた。


「…僕と同じ顔っていうのは気に入らないけど」

ああ忘れていた。
恭弥にとって今見えている私は恭弥の顔だったんだ。そう考えると打撲の傷が顔になくてよかったと思う、本当に。いや、今多分今は血まみれなんだろうけど、さ。
恭弥の整った顔を間近で見るのは随分久しぶりな気がしてぼんやりとしたまま見返すとその強張った顔にようやくぎこちないながらに彼の口元が緩んだ。


「どんな姿をしていてもだからね」

その言葉がどれだけ私に安堵を与えたかなんて、彼は気付いていないに違いない。