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さすがにお姫様抱っこのまま移動するのも恥ずかしすぎたので自分で歩くと主張したというのに嫌だなんてまさかの拒否。最終的に恭弥に背負われるということで妥協したけどやっぱり甘えさせてもらって良かったなと重い身体を感じながら思った。

ぼんやりと彼の背中に頬を寄せ、揺れ動く景色を見ていた。
もうあの一連の事件は終わったんだという安堵と、この身体の重さはいつまで続くのかという不安が渦巻いていた。残された僅かな体力が今も尚少しずつ失われていく。
この先に何があるのだろうなんて、分かっていた。ああもう多分、駄目だろうな、なんて。同時に、そうでなければいいとも願っていたけれど
――残念ながらその不安の源、異質な力を使った代償はすぐに私におとずれる。


「…っ」

視界が早くもぼやけ始めていた。眠気がゆっくりと、確実に襲い掛かってくる。

それはただの眠気だけではなかった。
ブレる視界、それでも何とか目を凝らして見える先は恭弥に背負われながら見える並盛じゃなくて、私の家の中で。


目の前に広がる光景はとても不思議なものだった。

並盛の景色と私の家、二重の視界。
まさかという気持ちと、やっぱりという諦めが湧き上がる。何、これ。(やっぱり)こんなところで、今、戻るっていうの。(…やっぱり)…こんな戻り方、ありっていうの?
確かにそう、この出来事さえ…恭弥に害がないように終わることが出来れば自分のことなんてどうなっても構わないと思ってはいたけど突然見えた終わりに、そしてこんな終わり方であることに愕然とした。
浮き上がるようなその感覚が恐ろしく、しがみ付くようにぎゅうと恭弥の背中を持つ手に力を込めるとこちらに首を傾け振り返る。


「どうしたの」

私の動きをひとつも見逃すまいと思っていてくれるそれがありがたかった。だけどその目とは視線も合わさず「何もないよ」と返しながら、私はただ静かにこの恐怖に怯えていた。

ひとつ始まるとすべてが押し寄せてくる。
話すことから封じ始めたのか、口が痺れ始めていた。身体が更に重くなってきているのに私を身体から引き剥がすかのように、上へと引っ張られているような気もする。けれど恭弥は変わらず私を背負ってくれているのだから恐らくこれはすべて私が感じているだけなのだろう。

私はこの世界で一体何をしたのだろう。そんな事をふと考えた。
何もしていない、何も、得てはいない。……いや、恭弥と一緒に住むなんてとんでもない体験はできたのか。つまり得たものは確かにあったけれどそれと同様のものを今から喪うわけで。じゃあ……私がここへきた理由なんて何もなかったじゃないか。

全ての物事には、事態には、事件には理由が存在しているなんて嘘だ。けれど先ほどとは違って恨む対象はなく、ただ理不尽に流れるこの事態に静かに唇を噛み締めた。

せめて、さ。
何かが綺麗に終わってはい無事にすべて解決しましたっていうところまで居させてはくれなかったのかと。…いや、私は漫画のヒーローでもヒロインでもない。そんな優しい展開、私に待ち受けているわけもなかった。
その間にも視界が段々と私の家の中を映し始めてきている。並盛の世界が、リボーンの世界が、恭弥に触れる感覚が薄れていく。零れていく。


――これは階段の下だろうか。
私が初めて此処へきた原因になった、不思議な出来事が起こる前の映像だろうか。…これは階段から落ちた私の見ていた、痛みを、感覚を、感情を伴う長い長い夢だったのだろうか。

夢であっても、いい。
帰りたくないと。元の世界に戻りたくないと心の底から願ったのは、初めてだった。仕事がある、私が生きていくために築いてきた社会の場がある、仕事から帰れば生きがいといっても良いほど楽しみな趣味の世界もある、それを投げ捨てでも此処にいたいと駄々をこねてしまいたくなるほど、
私はこの世界に、気が付いていない間に執着していた。恐れていた事実に今、直面していた。


「(こんな、終わり方…)」

悔いてもしがみ付いても、私は退場させられるのだ。
――当然だ、私は元々この世界に居ていい人間ではなかった。いつかは戻るときがきて、それが今だったっていうそれだけ。それだけは変わらない事実だろう。
仕方がない。どうしようもない。分かっていても、…物分かりの言いつもりで自分を納得させようとしていても受け入れられない自分も確かに存在していた。
確実に自分の世界が近付いてきているのを私にはどうすることもできず甘受するしか方法はなく、


「本当に、何もないの?」
「うん、ちょっと…疲れちゃって、」

眠ったら最後だろう。眠って起きたらもうこちらの世界に私は居ないだろう。何となく感じたそれはきっと気のせいじゃ、ない。
このままじゃ、このまま黙って消えてしまったら恭弥に後悔ばかりさせてしまう。ああ、何か。何か早く、伝えなきゃ。
恭弥の腕をつかんで、私は出来る限りゆっくりといつものように笑みを浮かべる。あと、もう少し。もう少し頑張って。耐えて。伝えさせて。少しでも緩和、できるように。


「…私、たくさん、黙ってたことがあったの」
「後で全部聞くから今は少し休みなよ」

休みたくないの。……休めないの。
そう返したいのに身体の内部が痙攣している。手足の振るえはもう止まらない。寒く、暗く、冷えたものが私の身体をゆっくりと蝕み始める。それでも視界が歪んでいるのは私の世界へ戻るからの、それだけじゃない。…待って泣かないで私。声が震えてしまう。悟られてしまう。
考えれば考えるほど、恭弥と、他の皆と、一緒に過ごしてきた楽しい日々が思い浮かんだ。後悔してばっかりなのは私。あの時どうして、なんて言葉、今更遅いっていうのに。


「もっと、一緒にいたかった、なあ」
「何変なこと言ってるの。さっさと治したら何処でも連れていってあげるから」
「ふふ、そりゃー……頑張らなくちゃ、ね、ぇ」

時というものは残酷で、一切待ってはくれなかった。
視界は変わらず二重の世界で、けれど比重は確実に元の世界の方へ傾いていく。もう目の前は私が意識をすれば今にも自分の家の中に戻るんじゃないかと思えるほどしっかりと見えている。
うすぼんやりと見える恭弥の背中。もうしがみつく程の力は、ほとんど残されていない。
痛みはなく今ただ感じられるのは寒さだけ。ただ、…眠いだけ。さようならを言わなきゃならないのにその時間も与えられていない今、私に出来るのはいつもと変わりない自分を演じるだけ。自分でも驚くほど落ち着いていた。


「座れるかい?」
「……ん、」

近くのベンチにゆっくりと降ろされた。
恭弥の顔はもうほとんど、…薄くにしか見えてやしなかった。それでも彼から与えられる感覚はまだ少しだけ残っていて。
私の頭を撫でてから、いつもより柔らかで、でもどことなく不安げな表情を浮かべながら額に唇を押し付けた。


「バイク、取ってくるから待ってて」
「うん、ごめんね」
「すぐ帰ってくるから。…絶対待ってなよ」

近くの駐輪場へと走る恭弥の後姿を見送った。
今の言い方、もしかしたら何か勘付いたのかも知れない。
恐らく彼の言う通り、数分もしない間にきっと帰ってくるだろう。これからも私と一緒に時を刻んでくれるために。これからも一緒に、過ごしてくれるために。でも、私はきっと、それまでに、


「…――ごめん、ね、」

ぱさり、と。
私の肩にかけられていた彼の学ランが落ちる音をゆっくりと薄れていく意識の中、たしかに聞いた。

―――――――――……。