山本武の忘却

夏が近付いてきている。

オレにとっては結構過ごしやすい季節になってきた。今日は待ちに待った練習試合で、いつもと変わらず朝からバッティングセンターに行って肩慣らしして、ランニングをして身体は十分に温まっていた。
特別記憶力がいいという訳でもない。寧ろ勉強は苦手なほうで、それでも野球に関してのものならば多少は記憶力に自信はあった。
それが人間関係であったとしても野球絡みであればそこそこで。

白熱した試合も中盤になって暫くの休憩。
実際野球の大会じゃもちろんそんな時間はないけどこういうのがあるのも練習試合の醍醐味だろうってオレも思う。この間に作戦を変えたり陣形を変えたり、チェンジしたり。あっという間に流れを変えちまうこのタイムの時間は結構好きだった。

ふぅと息をついてふとフェンスの外に目をやればヤマモトって書いてあるハチマキをしている女子達がこっちを見ていて誰か知り合いでもいるのかと声をかけようとしたら何故かキャー!って言いながら逃げられてしまって隣にいた先輩に「おー天然コワイコワイ」って言われたけどオレ、悪くなくね?逃げられただけなんだけど。

女って不思議なのなーなんて思っていたら今度はフェンスの下からちっこい手が見えた。オレのちょうど腰から下辺りになるとフェンスじゃなくコンクリートになっていて、背丈が丁度その辺りだったもんで見えなかったらしい。上から覗くと短髪の小僧が「んしょ」と登ろうとしている最中でついつい笑みを浮かべる。


「よう藤森弟」
「あ、こんにちは」

藤森の弟というのはすぐに分かった。
何ってったってこの前も来てくれて応援してくれたんだもんなー。オレは兄弟がいないし羨ましいって思ったっけ。


「…ん?」

前って、いつだっけ。いや、この前の日曜日だったっけ?
大会前だからといってそんなに頻繁に練習試合をしているわけじゃない。でも藤森の弟が来るってことは普通の日曜練習とかじゃないだろうし…珍しくオレがそんなことを忘れていることに驚いた。…あれ?


「みつる!」
「あ、お兄ちゃん」

藤森兄がオレの視線に気付いて駆け寄ってきた。
どうやらこの小僧はなかなかヤンチャ者らしい。最近は不審者も出てるみたいだし結構危ないってのは分かってるけど男だし仕方ねーのな。冒険は誰でもするもんだ。
それでもやっぱり兄ちゃんである藤森は心配で仕方なかったらしい。やっぱりオレも弟が欲しかったなーなんて思っているとフェンスごしに弟を小突き小言を食らわしていた。いい兄ちゃんだ。


「お前よくひとりで来れたな」
「大丈夫だよ。前はお姉ちゃんに連れてきてもらったし覚えたもん」

”お姉ちゃん?”藤森兄とオレが同じタイミングで小首を傾げた。
こいつが男兄弟しかいないのはオレも知っているからだ。あ、まさか藤森の彼女か?なんて思ったけど当の本人がきょとんとした顔をしているし違うんだろう。
だと思ったのに藤森弟は何故かオレの方を指差してにっこりと笑みを浮かべ、


「お兄ちゃんの彼女だよね?」
「…え」
「武お前彼女いたのかよ!ファンクラブ泣かせだなーこいつ!こいつぅ!」

そう、小突かれながら言われてもオレも記憶には無くそんな様子を藤森も感じ取ったのか弟に対して「いやでもこいつの彼女は野球だしお前の見間違えだろ?」って返していた。おいおいだからって野球は彼女じゃねーし。確かに、大事だけどさ。

けど、

『この子が迷子みたいなんだけど…』

藤森の弟に言われて初めて蘇る記憶。あれはいつだったっけ。
藤森の弟の後ろに見えたあの子は誰だっけ。顔がうっすらと曖昧で、でも紺色の長いスカートをひらひらとさせていて、
オレはすぐにそいつがそいつって分かって、手を振って近付いて。ってことはオレの知り合い…で?

……あの子って「おーい山本!」
ハッとして振り向いたらツナと獄寺がフェンスの向こうにいた。
ツナが元気よくぶんぶんと手を振ってくれて、それに振り返しながらズキッと頭が痛んだような気がした。


「10代目が応援してくださってんだ!負けたらどうなってんのかわかってんだろうな!?」
「獄寺くん!や、山本頑張って!」
「ははっ、そりゃ頑張らないとなのなー」

一瞬2人に聞いてみようかとも思ったけど多分、知らない子だろう。共通の女の友達なんて本当に限られていたし、それはオレだって覚えているわけだし。
きっと誰かの彼女か、そんな感じだったのかもしれない。オレとはそこまで仲良くなかったのかもしれない。


「んー……何だったけなあ」

でも、誰かと、今日の日を約束をした気がする。オレの大事な友達…ツナが、獄寺が来てくれたことは嬉しい。けど、まだ、居た気がするんだけどなあ。大きな大会の前に、一人。
ここまで思い返しても誰かってのが出てこなかったからそこまで仲良くなかった人間じゃだったのかもしれない。

…でも、少なくとも今日を楽しみにしていたのも確かで。
そうじゃなきゃオレが親父に寿司セットをあいつらの分とは別に1人分、多く頼むわけもなくて。
あの紺色の女、誰だっけなーホント。名前さえ出てくれればすぐ顔も思い出せそうな気もするのにそれがさっぱりでてこない。
まあ、後から考えるか。どうせ今考えてたって、


「武、打ち上げろー!」
「っしゃ!」

投げられた相手側の豪速球を前にそんな事なんて、
大きく空へと跳ねあげたボールと共に遠ざかっていくんだからさ。


カキーン!