雲雀恭弥の苦衷

夏が近付いてきている。

小気味のいい音とともにボールが遠くに飛んでいくのを見送りながら屋上で寝転がりながら大空を仰いでいた。
今日は近隣の学校と練習試合だ。もし万が一ここで喧嘩など起こされては風紀が乱れてしまうし抜かりなく風紀委員は既にあちこちに配備されていた。準備は万端だ。


「委員長、今のところ異常無しです」
「うん」

草壁の報告を聞きながらただただ青空を見上げ、僕はこの数ヶ月のことをゆっくりと思い返していた。

彼女の声を。赤らめた頬を。屈託無く笑うあの無邪気な人を。
苦しみ抜いたあの人の、助けられなかったあの身体を。


「……」

何かを呟こうとして何も発せられず閉じる唇。
声に出してしまえば認めなくちゃならない。彼女がいなくなったあれからの、ゆるやかな、それでいて大きな変動を。


並盛中学に不審者が入った。そんな草壁の事後報告を聞きながら何故だかそれを知っている気がした。
その夜、気が付けば僕は何故かベンチで横になっていた。学ランが皺になっているのだけが不快で、すぐに家に帰った。別に僕に怪我はなく何故だかシャツの背中部分が血に塗れていた。

不思議なことは沢山あった。
携帯には見覚えのないストラップがつけられていたり、応接室には興味を持ったこともない女子生徒のところに付箋がつけられていた。メモ書きやその処理の仕方は紛れもなく僕のやったことに違いないのに記憶はなくまるで僕ではないようなそんな気分にもなった。
何だか最近までの記憶が曖昧で、でも別に大したことではなかったのだろうなんて思っていて。


そんな僕の記憶を呼び戻したのは奇しくもあの家だった。
しばらくは仕事も余裕が出来てあの家へと寄ることは殆どなかったけれど、そこには僅かながら、けれど確実に彼女の痕跡が残されていたのだから。


『……なんで、僕は』

一時的に記憶が失われていたことに気付き愕然とした。

もう忘れない。忘れることなどしてあげない。
それでも世界はあの人を、の存在を忘却の彼方へと押しやろうとしていることに気がついた。
確認することは出来ないけど縁のあった草食動物である彼らですら…恐らく。


押切は確かに存在していた。
出席日数は僅か3ヶ月少しとその風紀委員に書かせていた記録だけがこの世界に残されていて、…しかしそれのみだ。
並盛でかなりの運動能力を持ったというその記録ですらすぐ違う誰かに塗り替えられている。あの人の机は今は隣の席の生徒の物置と化していることも知っている。
靴も教科書もこの学校に残されているものは何もない。

が作ったものは、…だけが使っていたものは全て消えていた。
獄寺隼人によって持ってこられたこのノートは僕が彼女に用意したものだ。
あの赤ん坊宛のハンカチはの部屋に置いてあったから沢田綱吉の机の上に置いておいたけどきっと彼らだってあれをみたところで思い出す事は無いだろう。


時とともに風化する記憶ならば仕方はない。
がイレギュラーな来訪者であり、彼女が言っていたように元の世界に帰り、全てが元に戻りあの人が幸せであるのなら割りきろう。


なのに、何故、どうして。


……君は、」

僕の手にはあの家の鍵がある。
あそこは元々彼女の部屋ではない。個人的な持ち物は元々無く何も残ってはいない。
だけどが追加で購入しあの部屋に置いていたものはわずかばかりに残されていた。
あの夜、途中で放棄されていた料理は何故だかなくなっていたけれど僕のためにと買った皿が増えていたりお揃いの柄の湯のみが置いてある…それから、疲れた僕のためにと買ってくれていたコーヒーシュガーだって使いかけのものが残ってある。

そんなわずかなものしかない。けれどあそこは確かに少しの間ではあったけど彼女と2人の空間であったことに変わりない。


――記憶しているのは僕だけ。
それを知ったとき、気付いたとき、まるで僕だけが長い夢を見ていたような、そんな感覚にまで陥った。


『何もないよ』

自分の背中に頬を寄せていたは何を決意していたのか。
笑みを浮かべ続けていたのはきっと僕を困らせないように、僕に悔いを持たすことがないように、僕自身を責めることのないようにと思ってしたことだって分かっている。
――なのに。

迎えに行ってやれなかった。気付いてやれなかった。話を聞いて、やれなかった。
それどころか、忘れようとしていた。…助けてやれなかった。謝れもしなかった。礼だって言えなかった。…、君がいなくなってから後悔ばかりだ。


「…だけど、」

はきっと元気に生きている。どこか違う世界で。そうじゃないと赦さない。
元々居たのだという世界に無事に戻れているのだろうか。
拭い取った目尻はまた濡れてないだろうか。優しいあの人のことだから僕なんかよりも後悔で苦しんでいるかもしれないというのに手を伸ばしてもはいない。

この世界には、居ない。もう触れることは出来ない。


『きっともう言葉は交わせないだろうから、メールで伝えることをお許しください』


グッと握り締めた手にはから贈られたストラップがつけられている携帯があった。一度外し捨てようとしたストラップはすぐに回収し、しっかりと取り付けられてある。
そして全て消えた彼女の私物と同様、に渡した携帯までこの世界からは無くなっていて、そして後日…僕が記憶を取り戻してから忘れていたかのようにそのメールが届いた。

『今までずっと、助けてくれてありがとう。私を見つけてくれてありがとう。たくさん伝え損なったことがあります。けれどそのまえに、お願いがあります』
「本当、……君って」

どうして僕を頼らなかったのだと責めさせてさえくれなかったね。君は、…貴女は本当に…その優しさこそ僕には残酷だったというのに。

『私の事は忘れてください。あなたの人生の中、関わった1人の人間として、それだけで十分だから』

「…勝手なこと、ばっかり」
『酷なお願いだとは思ってます。…ごめんね。
それでもこれがあなたの為だと私は思っているから。私が、代わりに覚えてるから』


じゃあどうして、一緒にいたいなんて。だから頑張らないとってあの馬鹿面で言ってたのに。
何処でも連れて行ってあげるって言ったそれすら、届かなかったのかな。…いや違うな。届いていたからこそ、貴女は笑っていたんだね。血にまみれながら、……弱いくせに、僕を庇って。
――本当、


「僕がどんな気持ちかなんて…貴女は馬鹿だから気が付かなかったんだろうね」
『雲雀 恭弥さま』

試しに何度かかけたけどそれは決して繋がることはなく、だけど完全に否定されるほどのものではなく。

『私はあなたに会えて、本当に幸せでした』



『おかけになった電話番号は現在、電波の届かないところにいるか・・・……
おかけになった電話番号は現在、電波の届かないところにいるか・・・……
おかけになった電話番号は現在、電波の届かないところにいるか・・・……
おかけになった電話番号は現在、電波の届かないところにいるか・・・』



―――プツンッ!

「貴女は一体、何処にいるんだい?」

それでも僕は、問わずにはいられない。

こすぱに! 〜Fin〜