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ぐっすり眠ってしまった私を起こすのが偲びなかったのか起きると二人ともどこにもいなかった。
ベッドはまだ誰も使った形跡もなく、電気をつけると机の上には一つのメモ。いつも見慣れた、母さんの綺麗な文字で『ご飯にお呼ばれしてきます』の一言。

『いい事を、教えてあげましょう』

何時間か前に聞いた言葉が脳裏によぎる。もうすぐ夜が明けるというのにどうして二人は帰って来ていないの?母さんのメモを握りしめ、私はまたランチアのところへと走った。

『命が惜しくば明日の朝まで大人しくしておく事です』

ランチアからもらった薔薇の花は握り締めた私の手の中で、萎れていた。










屋敷は、音を立てて燃えていた。
ただ建築物が燃えているようなそんな匂いだけじゃなくて、嗅いだことのないような…とても焦げ臭くて吐き気を催すような。夜目が利かずに、屋敷に向かって走ると人影が一つ。

『君は』
『…来てしまいましたか』

彼の背後に広がる、燃え盛る炎のせいで顔をじっくりと見ることも出来なかった。それでもこの火災の原因の一端は間違いなくこんな状態であるにも関わらず動じることのない彼にあるという事は想像出来て。

『っ、どうして』

自分が何も出来ないのは分かっていても。親が危険な目にあいそうだとわかっていてもここに来るしか無かったし、でもだからと言って私はこの炎を消し止める術は知らなくて。
目の前の彼に言葉をぶつけるしか出来なくて。
そうだ、この人が言ってたじゃない。私は何も出来ない子供だと。まさにそのとおりだった。

『だから言ったのに。来ない方が良かったと』

残念です。
気が付けば彼の手には何か刃物がついた棒みたいなものを持っていて、それはどこかの漫画で見たことのあるような槍で、殺されてしまうんだと直感した。
振りかぶられるそれは間違いなく私の胴体を切り裂くのだと。優雅に歩いてくる彼に、私は足がすくんでしまって動く事も出来ず。

―――火事場の馬鹿力というものを、私はここで身をもって体験した。
運動だって苦手な方だったし、走るのも早くない。
クラスの皆にはドジだなーって笑われて、父さんに泣きついたらその運動音痴具合は母さんに似ているよと慰められて。そんな私が、逆に彼へと近付き刃物が直接当たるのを避け、彼の持つ武器を棒ごと握りしめた。
彼の驚いた顔が、やけに印象的だった。色の白い彼の目は青く、眼帯をしている目もきっと遂になる美しい海の色をしているに違いない。

『君はなかなか、面白い』
『死にた…くない』
『なら無様に這いつくばって生きるがいい!』

離すわけにもいかず、そればかりを気にしていたらお腹に衝撃を受けて、そこで私は蹴られた事に気付く。思わずふらつき、尻餅をつく。ヒタ、と首に照準を照らす穂先。
嗚呼私は死ぬのか。日本でもない場所で、同じぐらいの年齢の、正体も知らない男の子の手によって。

『…殺してやる』
『おお、怖い怖い』

私の喉から、搾り出すように出た言葉は、それなのに命乞いのものではなかった。目を開いて彼の姿をしっかりと脳裏に焼き付ける。絶対に、絶対に許さない。
彼はそんな私の様子を面白そうに見つめると、今度こそ槍を近付けて、

『…おや?先輩どうしました?』

その槍は、私を傷つけることは無かった。あと少しで突かれて死ぬだろうと思っていたのに、それを止めたのは一番頼もしかったその背中で。
振り返ったその目は、目の前の彼と同様冷たくて。それでいて、彼は全身血塗れで。

『ランチア…!ランチア、父さんと母さんが!』

それでも、彼の手にすがり付くぐらいしか私には出来なくて。ランチアはしゃがみ込み、私に目線を合わせるとポトリと私の手に何かを乗せた。
生暖かい、真っ黒な液体の中に、銀の指輪。


―――その指輪の、この炎の、この匂いを、

理解した私はそのまま何かを叫んだけれどその後視界はぷっつりと真っ暗になってしまった。




『この娘、殺すと面倒そうですね‥解けてしまいそうだ』
『安心しなさい、もう気絶しています。聞こえてやいませんよ。…しかし、先輩もなかなか酷なことをしますねえ。そんな物渡したところで何の解決にもならないというのに』
『娘、起きて答えなさい。名前を。僕の名前は―――‥‥』
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