01.それは始まりにして。


暗い部屋に男が2人。
帽子を目深に被った背の低い男は東洋人であろう女を後ろに従え、目の前に座る男と酒を酌み交わしていた。帽子の男の前に対座する男はイタリア人。
鍛えてあるのだろうかスーツの上からでもその体躯の良さは見て取れる。


『例の新薬が出来上がったって言うのはそれは本当か?』
『ああそうさ』

その声音は聞かれる不安すら微塵も感じさせず寧ろ堂々としているものだった。無理もない、此処は全て男達の息のかかった領域だったからだ。
コトリと小さな音を立てて彼らの目の前にある机の上に置かれたのは白い錠剤。ほぅ、と男が感嘆の息を漏らす。ただ見てくれは普通の薬と何ら変わりはないが彼の研究内容を知っている男は物珍しそうにそれを食い入るように見た。


『これを自在に使いこなせるのが君の娘ということか』
『そうだとも。何せ』

くるりと振り向き男は己の妻を上から下までまるで商品を見定めるかのようにジロリと見た。


『これの胎内に居る時から微量ずつ投薬してきたからね』

アハハと笑う男の姿がブレる。
おっと失礼、と帽子の男がパチンと指を鳴らすと幻術は解け、帽子の男も彼と同様の金色の髪をした人間へと変貌した。

彼の名前をコンラードという。
とある人体研究を主とするファミリーの末端の組織の人間である。そこで学んだ研究はどれも意義のあるものだったがサンプルを使い捨てるそのやり方が勿体無いと…素直に思ってしまったが故に組織を抜け、己の得意とする幻術によりどうにか命からがら逃げ延びそして今は日本人の男を1人殺した後に成り代わり、家の家長をしている。

幸いにして成り代わる彼の家には薬剤や器具が何種類とあり、そして夫に従うタイプの妻、そしてその女には子供を宿していた。
彼が属していたファミリーより盗んできたものは、生命を削る事により飛躍的な力を手に入れることの出来る薬のレシピ。実験をするには恐ろしいほどに何もかもが整えられており、彼にとっては極上の世界だった。

母胎にいる頃から微量ずつ投与し、生まれれば物覚えのいい子供へと成長させ、食事に投与。
幼い頃は吐き出しもしていたが徐々に慣らせるにつれ、ついに砕いた1錠分を食事に混ぜても吐き出すことはなくなっていた。最近ではそれを食わせた後、褒美として食べさせるチョコレートケーキが大好物だと漏らす程に、素晴らしい成功である。
後はこの試薬品を売り捌く相手を思案しているところだが、


『…継続してヴァリアーに売ろうと思っている』
『!ああ、あの暗殺部隊の』
『いい金になるんだよねえ、やっぱり。最近は何故か減るのが遅いけど、成功体も連れていけば一石二鳥どころか三鳥四鳥にもなるんじゃないかな』
『ちげえねえ』

そう笑っていた。彼の計画は完璧だった。
それを崩したのは、その場に響く凛とした少年の声だった。


『面白そうなことをしていますね』

ザシュリ。
机の上に置かれた手ごとを狙い大振りのナイフが落とされる。錠剤の入れられた袋はもちろん、男の手にもそれは貫通し血の匂いが充満した。
痛みに振り返るとそこにはコンラードの知らない気配。


『お、お前は』
『なる程、残党如きが粗末な幻術を使い逃げ続けてきたと言う訳ですか』

暗闇から現れたのは一人の少年で、だが頭の回転の早いコンラードはその一言で悟ってしまった。
最近あの研究に塗れたエストラーネオファミリーが一人の披験体によって壊滅させられたことを思い出し、彼が何者かということを理解してしまった。
そして、少なくとも今の自分では太刀打ちのできない相手であることを。

――これが、あのエストラーネオの至宝か。
ニヒルな笑みを浮かべた。いい研究材料が目の前にやってきたけど、今はそれよりももっと大事なものがある。それに、


『今手元にアレがいないのが残念で堪らないねえ』

気が付けばコンラードの目の前に座る男は絶命していた。
ビジネスの話もこれまでだ。今はただそれよりも退散することが優先か。戦う素振りすら見せずに鮮やかに退却したのを確認すると骸は冷たい目で「逃げ足は速いようですね」と評した。


『…先輩。もういいですよ、片付けてきてください』
『…』

机の上を見やると男の残した薬と、そして指輪が見える。
家長に成り代わる為のそれは本来の持ち主の人間とサイズが違っていたのだろう。幻術を解くとそれは違う指輪へと変貌する。不要なものかと思ったが何故かその指輪を見た瞬間に背後に寄り添う形で立っていたランチアが動いたのが見えたのでそれを渡す。
果たして、これは何かに使えるものなのか。その時の骸は何も考えることはしなかったが。

指輪を手にしたランチアは片付けろという彼の命に従うために足早く建物から出ていった。
間もなく彼の住まう屋敷へと到着し、すべてを終わらせるだろう。居心地の悪くは無い場所だったが所詮はマフィアというわけか。


そして、
骸は身じろぎひとつしない女を振り返った。


『さて、それでは次に貴方と言いたいところだが如何せん見られすぎてしまいましたからねえ』

それに、話を聞いた限りでは最早彼女は長い期間の精神支配を受けている。
そんな状態で自我などあるはずもない。


『…私の、子供を』
『なんですか?』
『貴方と、同じ、年ぐらいの』

たすけて。
ほう、と骸は関心する。マインドコントロールを長年受けているにも関わらず、こうも我が子の心配ができるとは。とは言っても自分には理解のできない感情ではあるのだが。


『あなたの、娘の名前は?』
…お願い、あの子を助けて…』
『正義の味方になるつもりはさらさら無いですが、様子は見てきましょう』

お願いします、と預けられた指輪は彼女自身が持つ指輪だった。これは何だ。対価のつもりか。訝しげに彼女を見返すも、それ以降彼女からのアクションはない。
それでもすがり付くような視線に耐えきれず上着のポケットに突っ込むと、今頃燃え盛っているであろう屋敷へと足を運ぶ。

それは、悪夢の始まりだった。

【それは始まりにして】
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